縁をつないで ~Secret rose garden
施設を出たあと、エマはこれからお世話になるバラ農園へと足を進めていた。
もともと絵を描くことが好きだったエマは、祖母カミーユの写真を手にしてから、バラの絵をよく描くようになっていた。そのことを知った雄子が紹介してくれたのが、今から向かう場所、誓子・哲也夫妻が経営するバラ農園だ。
誓子と哲也はとても仲のいい夫婦で、彼女らが運営しているバラ農園は、エマが高校に入学した当初からアルバイトでお世話になっていたところだ。これからは、そのバラ農園で住み込みで働く予定になっている。
施設から電車とバスを乗り継いで約一時間。バラ農園と書かれたバス停で下車すれば、目の前にはバラを育てるための広大な敷地が広がっている。敷地の中には、気温を管理して育てる必要があるバラのために、ビニールハウスも何棟か建っていた。そして敷地の中央にある一軒家が、夫婦が住んでいる家だ。
バラに囲まれて建っている家のベルを鳴らせば、奥から走って来る足音がパタパタと聞こえてきた。
「こんにちは。これから、改めてよろしくお願いします」
ガチャリと開いた玄関のドア。エマは背負っていたリュックを下ろし、これからお世話になる誓子に丁寧に頭を下げた。ドアを開けた誓子は笑みを浮かべたまま、エマに顔をあげるようにと伝える。
「いらっしゃいエマちゃん。そんな硬くならなくていいのよ? あ、これからはお帰りなさいの方がいいかしら」
そして嬉しさを抑えきれず、奥の部屋で新聞を読んでいる哲也に声をかけた。玄関から続く廊下の先にあるドアから、哲也の座るテーブルがわずかに見える。
「……そうだな」
「ほらエマちゃん、お帰りなさい」
しばらくの無言ののち、小さな声で返ってきた肯定。その言葉にさらに機嫌をよくした誓子は、改めて優しい笑顔でそう告げた。
「あ……ただいま、です」
なんとなく気恥ずかしくなったエマは、少し俯き加減で答える。誓子はそれでも十分満足だったようで、今日のご飯は何にしようかしら、と言いながら哲也のいるリビングへと戻っていった。
「哲也さんも、これからよろしくお願いします」
「……今日は、仕事はない。部屋の片付けをしていなさい」
誓子のあとに続き、エマも靴を脱いで家へと上がると荷物を持ってリビングに入った。新聞を広げていた哲也にも頭を下げると、小さく上下に動いた顔。その後、淡々とした声で告げられた内容に頷いて、前回のバイトのときに教えてもらっていた部屋へと足を進める。
「ご飯が出来たら呼ぶわね」
「はい。お願いします」
リビングから廊下に出て、階段に足をかけたタイミングで聞こえてきた誓子の声。エマは誓子に届くよう少し大きめな声で返事をして、用意してもらった部屋に行くために階段を上がった。
二階の一番奥の部屋。農園中のバラを上から見ることができるこの部屋は、エマのお気に入りの部屋だ。高校時代、土日に泊まり込みでアルバイトをするときも、よくこの部屋を使わせてもらっていた。
部屋の中には、小さなテーブルが一つとシングルベッド。それに、洋服を入れる棚も一つ置かれている。
場所とお金に限りがある施設では、服や物をたくさん買うことはできない。自分のための買い物自体そんなにしなかったエマは、持ち物自体が少なかった。洋服も施設の子供たちに大半をあげてしまったので、持ってきた荷物はとても少なく、片付けはあっという間に終わった。
最後の服をしまい終えたエマは、ベッドの端に腰掛けた。そこからは、窓から外のバラがよく見える。エマは祖母カミーユの写真が握りしめ、ぼんやりとその写真を眺めた。
「私の、家族……。おばあちゃん」
幸せそうに笑う祖母の輪郭を、指でそっとなぞる。
雄子も、そして誓子や哲也だって、エマの家族と言えるのかもしれない。この家についたときに送ってもらった先ほどの言葉だって、幸せかと聞かれれば幸せだとエマは答えるだろう。
けれど、それだけではどうしても埋まらない何かがあった。
「本当の、家族」
血の繋がった、本当の家族。
火事で写真以外のものが全て燃えてしまったエマには、家族との繋がりはこの写真しかない。両親を亡くしたのが五歳と幼く、顔すらおぼろげで、しっかりと思い出すことも難しいからだ。
手にとって眺めることができる家族の思い出は、祖母カミーユの写っているこの写真だけ。父親の両親も早くに他界していて、一人っ子だったため日本に親族はいない。母親は外国人とだけわかっているが、どこの国の人かもわからず、手がかりは今手の中にある祖母カミーユの写真だけだ。
言いようのない孤独感を埋めたくて、エマはカミーユの写真を、優しく抱きしめる。
「……行ってみよう、フランスに」
そして小さな声で、大きな決意を口にした。
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