「どうぞ」
「あ、ありがとう」
差し出されたのはホットミルク。湯冷めをしないようにと言ったルイの手元にも、同じようにホットミルクが握られていた。一口飲み込めば、わずかな甘み。温めた牛乳にハチミツを少し入れたらしい。自然な甘さに一気に飲み干してしまいたい気持ちを抑えて、エマは目の前に座ったルイを見つめた。
「さて、どこまで話したっけ?」
「お父さんが建築家だったところまで聞きました」
「そうだったそうだった」
思い出した。と手を叩いて、ルイはエマに視線を戻した。開かれた口から語られるのは当然エマの両親の話。
「エマのお父さんは、仕事の都合でこの街に来ていたって言ったよね?」
「うん」
「その仕事には、終わりがあったんだ」
建築家としてこの地に来ていたエマの父。その仕事の契約期間は、五年間だった。エマが生まれてから三年が経った頃、その五年という契約期間が終わりを迎えた。
「おばさんはカミーユさんを置いていきたくなくて、本当に悩んでいたよ」
愛する夫についていけば、愛する母を置いていかなければならない。難しい選択に頭を悩ませたエマの母だったが、母であるカミーユの言葉で、愛する夫とともに日本についていくことを決めた。
……私は、愛する夫のそばに居るわ。だからあなたも、自分が選んだ、愛する人の隣にいなさい
悩むエマの母に、カミーユはそんな言葉を投げかけたという。
自分は、先立ってしまった愛する夫のそばにいることを選ぶ。だからあなたも、愛する人のそばに居ることを選んでもいいのだ、と。その言葉に背中を押されたエマの母は、エマも連れて一緒に日本に行くことを決意したのだ。
「そして、エマが三歳になった冬、エマの家族はそろって日本に渡ったんだ」
「……私の家族は、みんなとても愛し合っていたのね」
日本に行くまでの話を聞いたエマは、深く息を吸ったあと一言そうこぼした。幸せそうに顔を綻ばせたエマは、家族の話をルイから聞くたびに、少しずつ心の中の隙間が埋まって行くように感じた。
エマの両親の出会いから日本までのことを話し終えたルイは、そこからはエマがカナダにいたときのことを細かく伝えた。どんなことをして、どんなことを話したのか。幼かったエマとはどんな遊びをしていたのかなども伝えていけば、さらに暖かくなるエマの胸の奥。
「ねえエマ。君はこのあと、どうする予定なの?」
「手伝ってくれたみんなに、お礼を言おうと思ってるんだ」
夜も更けてきた頃。たくさんの話をして盛り上がり、話題が少しだけ途切れた瞬間に、ルイがずっと気になっていたことを口にした。話の間に食べるために、テーブルの上に広げていたチョコレートのお菓子を口に運びながら、エマはお墓を見つけたあとにしようと決めていたことをルイに伝える。
いつの間にか、エマの口調はくだけたものに変わっていた。
「よかったら……しばらくここにいたらどうかな」
ルイは少しだけ躊躇ったあと、エマにこの家にいたらどうかと提案した。自分の家にいれば、滞在費などは気にせずカミーユのそばにいることができる。年頃の女性にそのようなことを言ってもいいものか悩んだが、家族との繋がりを何年も探してやっと見つけることができたエマに、近くで過ごす選択肢があるのだと知って欲しかったとルイは続ける。
「…………」
目を伏せ、しばらく口をつぐんでいたエマが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳はわずかに潤んでいるようにも見えて、ルイはぐっと気持ちを引き締める。
「……いいの、かな」
エマの唇から、消えそうなほど小さな声がこぼれた。
幼い頃の自分を、家族を知っているルイを今更信じられないとは思わない。だが、エマはここに来るまでにもたくさんの人から手を差し伸べてもらっていた。そんな自分が、再びこの優しい手を取ってしまってもいいのか悩んでいるのだ。
ルイは、涙の溢れそうなエマに水玉模様のハンドタオルを渡しながら、ふわりと目尻を下げて安心させるように微笑む。
「僕は、話す相手がいてくれるととても嬉しいな」
エマが何に悩んでいるのかがなんとなくわかったルイは、あえてカミーユや家族のことには触れず、自分自身の気持ちを伝えた。一人きりで祖母の残した大きな家にいることに寂しさを感じていたことも素直に口にする。
だからこそ、お互いの家族を知っているエマに、今出会えたことがとても嬉しい。そう言ったルイに、エマは勢いよく顔を上げた。
「私も、おばあちゃんのそばにいたい」
「うん」
「お世話に、なってもいいかな」
ポロリと瞳からこぼれ落ちた涙を、ルイにもらったタオルで拭うのも忘れて、エマはそう声に出した。彼女の言葉の勢いに少し呆然としていたルイだったが、意味を理解した途端嬉しそうに破顔する。
「もちろん!」
こうしてルイとエマは、バラに囲まれた大きな一戸建ての家で二人で暮らし始めた。
ルイには仕事があるので、ルイが仕事でいないときにはエマが家事をこなし、家事が終わったあとは自分の分の生活費を稼ぐために絵を描いて過ごした。エマの描くバラを気に入ってくれる人もいて、わずかではあるが定期的に収入を得られるぐらいにはなっていた。
ルイの仕事がないときや、仕事が終わったあとなどは、二人の家族のことについてたくさん話した。自分が小さいときはどんな子供だったのかなんて話も聞いて、エマの心は、日を追うごとに満たされていく。
施設を出たあとから、自分が誰かわからなくなって、エマの心に突然ぽっかりと空いた大きな穴。ただただ寂しくて、虚しくて、その穴を埋めるためにカミーユを探す旅を始めた三年前。
旅の過程で出会った人たちの暖かさに、大きかったその穴は、だんだんと小さくなってきていた。けれど、完全に塞がるまでには至らなかった。しかし今、ルイと二人でこうして家族の話をするたびに、綺麗に穴が塞がっていくのをエマは感じていた。
出会った人たちの暖かさと、ルイから語られる本当の家族との思い出。自分は愛されて生まれてきたことや、これまでの家族との思い出の話を聞いてやっと、エマという人間が出来上がったような……。
エマは今までで一番、幸せな時間を過ごしていた。
この記事へのコメントはありません。